80代、母親世代の生きた道

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昨日、今日と2人づつの80代女性、合計4人と時間を共に過ごした。

昨日は親友おさないのお母さんとそのお友達。図らずもそのお宅は私が越した家からすぐそばにあり、昨年来たびたびお邪魔させて頂いている。

「みんなで夕食を食べるから一緒にどう?」との声がけを頂き、夕方いそいそと伺った。すっかり家族同様に接して頂いて本当にありがたい。お母さんの女学校時代からの同級生…というからもう70年近くをともに過ごしてきたお友達も交えて、心づくしの料理を頂いた。

聞けば、その同級生仲間はまだ数名いらして、それぞれに得意ジャンルの料理があり、80歳を越えた今でも料理を持ち寄って午前から夜遅くまでの宴をするそうなのだ。

そのお料理と言うのが、とにかくどれも美味しい。洋食が得意な方、和食が料亭はだしの方。お菓子やパンがプロ級の方、はたまたあるものでパパッと手早くどんなつまみも美味しく作ってしまう方。誰が誰に気後れするわけでもなくそれぞれのペースで「美味しいもの」を持ち寄る。それを自分の家のようにリラックスできる食卓に乗せる。

亡くなったお父さんも、かつてその輪の中で気心知れた付き合いをしていたそう。「○◯ちゃんの△△が食べたいなあ」と一言聞けばすぐに作ったのよ、と言う。その料理に関しても美味しいとストレートに称賛したり、またいまいちだった時には「もう少し◯◯だったね」など忌憚のない意見を伝えていたとか。

そんな思い出話を聞きながら、時代背景が違うとは言えひと世代上の女性たちの「料理」というものは、大袈裟でなく高度成長期の日本を下支えしていたんだなあと感じた。毎日3食、ずっとずっと家族の要望に答えながら食材と調理に向き合って来たというのは壮絶なクリエイティブだ。もうそれぞれの伴侶が他界して、なんの遠慮もない飾ることもない間柄の大好きな友達と集う先に、未だ手に覚えのある美味しい品々が並び、私たちはそのクリエイティブのご相伴に預かっているのだ。

私は、なんとかそのコツを学ばせていただこうと虎視眈々と隙間隙間で作り方を教えていただいた。この情報のなんと貴重なことか。それは単なるレシピなんかではなく、日本の命を支えて来た女の生き様そのものなんだ。

そして、本日。久しぶりに母親が鎌倉に来た。いくら元気そうに見えても数年前の大病や足の怪我の影響でなかなか自由に動き回ることが出来なくなってきた。

母とはほんの数年前まで色々と問題もあったのだけれども、もう80歳。色々な力を借りながら、いまでは良好な関係性を築くことができている。親が元気なうちに、このようにまっすぐな関係性になれるとはなんと幸せなことかと思う。

誰しもが、人に言えない親との長年の関わりの中でわだかまるひとつやふたつ、また根深く動きの取れないことがあるだろう。でも、時間は確実になくなってくるのだ。こちらももういつどうなっても(時代的にも)おかしくはない。今生、できることはやり切る所存になればもう過去のことを言っている暇はない。

そんな母が、小学校の時に転校してきて家族ぐるみで仲良くしていた友達が極楽寺でお店をやっているから行ってみたいという。そのお店は先日テレビに取材され、そこでまだ元気な姿を発見したので是非会いに行きたいのだという。

私は、よかったと思った。時折、気を使いすぎて、またこちら側の心情でものごとをあれこれ考えすぎて物事をあと伸ばしにするところもある母だった。でも、今では思ったらすぐ行動に移す。私も今日は一緒に極楽寺のお店にお供していった。

81歳にして、未だ現役でデザイナー兼リメイクファッションのお店を経営するそのお友達は、母と私(も小さい頃に会ったことがあるらしい・・・もう40年以上前のことだから覚えていなかった)の顔をみて名前を呼ぶと、ポロポロと泣いてしまった。まさか、急にお店に顔を出すとは思っていなかったんだろう。

それからは、近況の報告から戦後の一番苦しかった時代の話、その後の人生の紆余曲折、そしてこうして今日のこの日にまだやりたいことがたくさんの二人であることを確認する時間だった。

帰り際に手を取って、また嬉しいと涙する様子を見て私も感動した。元気であれば、会えてなんぼだ。残りの日々。少しでもこのご縁ある人たちと楽しい時間を過ごし、色々な話を聞きたいなと思った。

未だ、元気でいてくれるこの80代の女性たちと接しながら、腹の座った軽みの前に、私たちはまだまだひよっこだと感じる。