握手してくれた清志郎の手は繊細で優しかった
あてもなくぼんやりとYouTubeを見ていたら、忌野清志郎と矢野顕子の「ひとつだけ」が流れてきた。いつだかの、ライブの映像。スーツの後ろ姿を眺めながら、この頃の清志郎が一番好きだったなあ・・・と思いながら見ていて急に込み上げるものがあり、色々な感情が蘇って来たので、涙で流れ切ってしまわないうちに書き留めておこうと思う。
小学校高学年の頃だろうか。私は年の離れたお姉さんがいる友だちの影響でラジオを聴き始めた。FMはAMよりも音が良くて、洋楽も邦楽もセレクトされた上質なものが流れており、AMはFENで海外の空気感を知ったり、ラフなおしゃべりと音楽を楽しむもの、という印象だった。
中でも、TBSラジオの「夜はともだち」という番組をよく聞いていた。特にパーソナリティが春風亭小朝の日(確か火曜日)に放送されていた「スネークマンショウ」の怪しい世界に惹かれていた。大多数の友だちがテレビに出てくる歌手の音楽を好んで歌っていた中、もちろんそういう王道の音楽を聴きつつも、いわゆるアングラな雰囲気のするものを深堀りしていた。当時はニューウェーブといい、今ではサブカルと言うようなジャンルだ。
同学年で確か3人くらいスネークマンショウを聞いていた。放課後に、こそこそと録音カセットを交換したりしていたような思い出がある。「バナナマン」のコンビ名の謂れにもなった、サブカル界隈では元祖的なブラックコメディ。その後、大人になって子どもも持つようになってから、私はそのスネークマンショウの桑原茂一さんのところで働くようになるのだが、その話は山ほどの想いがあるのでまた別の機会に。
その流れで、中学生の頃にはYMOやシーナ&ザ・ロケット、忌野清志郎率いるRCサクセションを聴いていた。映画・ブルースブラザーズに影響を受けて、ブラックミュージックにも傾倒し始めた頃だから、特にソウルミュージックの影響を受けたシーナや清志郎、高橋ユキヒロさんがボーカルの歌が好きだった。
学校でその辺りの話ができる友達はあまりいなかったのだけれども、高校生になって同じクラスになったあっちゃんとは気が合った。親友のあっちゃんはとにかく清志郎が大好き。高校・大学の頃はバイトして得たお金を残さず注ぎ込んで、二人してコンサートに行きまくった。
清志郎は泉谷しげると仲良しで「いずみちゃん」「清志郎」と呼び合い、当時「真夜中の雰囲気一発」というオールナイトイベントをやったりしていた。そこにはお客さんとしてエスパー清田くんがいたり、ロングコートをスタイリッシュに着こなす伊武雅刀、シーナ&ザ・ロケットが出演する日にはそのお子さんたちも勢揃いしているなど、今で言うとフジロックに出演する人がオフステージでもリラックスして場を楽しんでいる、というような雰囲気があった。
学祭に清志郎の別ユニットTimersが来たり、様々なイベントの他に日比谷の野音で行われたRCのコンサートには毎年通うなど、本当にあっちゃんと私は清志郎の音楽と歌を浴びまくって青春時代を過ごした。
ある時友だちから、清志郎がたびたび訪れるという渋谷のバーを紹介してもらった。清志郎が来る曜日があるというのでその時にあっちゃんと二人でドキドキしながらお店に向かうと、飲み物を飲んでいる間に清志郎がスタッフの人と3人くらいで現れた。
そこからはあまりはっきりと記憶がない。でも、お店のマスターがあっちゃんと私のことを紹介してくれて、一言二言何か会話をし、清志郎はゆっくり一人づつ、丁寧に握手をしてくれた。
何を話したか?の記憶がないのに、清志郎の手が小さく、とても繊細だったことははっきりと覚えている。あんなにステージでは大きく見えたが、本物は体格自体も小柄で声も小さい。でも優しさが滲み出るようなあたたかい人だった。
清志郎ががんの闘病を終え、復活祭をやった時もあっちゃんと私は日本武道館の客席にいた。抗がん剤で髪が全て抜け落ちて坊主になっているところからだんだん毛が生えてきて、パジャマから衣装に着替えて病室を後にするというオープニング映像を泣きながら見た。
その後、清志郎は私たちが思うよりずっと早くあっけなく逝ってしまった。青山斎場での葬儀はファンの参列も歓迎されていたので、もちろん二人で行った。
それはさながら本物のラストコンサートのようだった。お焼香の列に並んだ4時間のあいだ、ずっと周りの人と一緒に大音量でかかる曲を口ずさんだ。
音楽を聴き始めた頃、その時代よりも数十年昔の文化に憧れた。私でいえば60年代。今は若い人が80年代の音楽に憧れているという。清志郎の音楽を生で浴びるほど聴いた青春時代は私の自慢だ。
古い思い出をとりあえずは少し書き綴ったので、この映像をもう一回見ながら心置きなく泣きたいと思う。