まだまだ音楽を続けていこうと思う
20代の頃からアマチュアバンドをやっていて、今年は結成何年になるのか?もう忘れてしまうほどだ。確か10周年の時とか20周年のあたりまではライブのMCで何となくそんな話をしていたかもしれない。
新卒で入った会社は面白かったのだけれども、昼夜関係なくずっと仕事にどっぷりだった。特にほとんどが男性の営業畑に異動した(女の園である事務職からつまみ出された)あたりからは、現地と東京の往復の中でプライベートなどはない時期もあったし、しばらくは血尿出しながらも働いていた。若い頃には無理が効く。24時間戦えますか?というCMが持て囃されていた、そしてジェンダーギャップが当たり前だった時代。男性と同じ畑で働いて目に見える数字として成果が表れる営業職、現地と本社お客様との間を縦横無尽に繋ぐ仕事は、とてもやりがいがあった。
が、2年半が過ぎた頃わたしはある種の「燃え尽き症候群」のような感覚に襲われた。急に涙が出たり無気力になったり。長年いざこざがあった家庭でもあったから、それまで子どもなりに頑張ってきたツケが回ったのかもしれない。とにかく24歳の時に私は自分で「今、自分がやりたいことを3つ何でもやっていい…」ということに決めた。
一つは家を出ること。その日の会社帰りに不動産屋に行って初めての一人暮らしのためのアパートを契約した。
もう一つは歌を歌うこと。会社から2駅くらいの赤坂にあるジャズのボーカルスクールの門を叩いた。
3つ目は何だったか、忘れてしまった。
そのボーカルスクールでは歌のレッスンだけでなく、スクールが運営するライブハウスに出演するという流れがあった。今考えるとライブの経験を積ませてもらうという名目の裏でチケットの捌きとかいろんな目的があったのかもしれないけど、とにかく私は人前で歌い始めた。
ジャズのことは良く知らなかったが、歌の伴奏をしてくれるミュージシャンを集めることなくライブの真似事ができるのは楽しかった。スティーヴィー・ワンダーやカーペンターズの曲など、ぎりぎりジャズの仲間に入れてもらえるような楽曲を選んでカバーし、ライブ毎に何とかしのいでいた。
そのボーカルスクールで同じ年の仲間と出会った。他の2人は元々同級生だった。話していると楽しく何となく気が合って、同じライブのステージをやっていた男性(歌がうまくて、トム・ジョーンズなどを歌わせれば天下一品だった)のバックコーラス隊でもやろうかと軽く思いつき「Unchain My Heart」の3声コーラスを合わせてみた。
場所は代々木公園。スタジオを借りるお金もなかったんだと思う。ボーカルスクールはすぐにやめてしまったが、青空スタジオで歌い始めた同じメンバー3人で、今に至るまでずっと歌っている。こんなこと、誰一人として想像していなかっただろう。
音楽が好きで、歌うのが好き。ただ、それぞれがさほど上手いわけではない。それを何となく補完し合う形でずっとここまでやってきた。趣味も微妙に違うのでいい年になった今でも本気で揉める。年に1度もライブをやらないアマチュアなのに、なぜここまで本気でやるんだろう?何度もそう思いながらも、25年を超えた。
コロナになって、ずっと活動を休止している。最後に予定していたライブをキャンセルしてから1年以上経ってしまった。オンラインを試してみたけれど何だかしっくりいかないから、そこは無理して頑張らずにいる。
バンドメンバーの状況も変わってすぐにはスタジオに入れない状況が続いていたが、肩慣らしというか、リハビリというか、それよりも何よりも楽器を合わせて歌う楽しさを思い出したくて、数ヶ月に1回、スタジオに入ることにした。
夏に予定されているスタジオ遊びのために、今日は色々YouTubeで曲を探している。洋楽・邦楽問わずみていたら、松任谷由実の1990年のステージが出てきた。
カンナ8号線は大好きな曲だが、改めて見てここまでエネルギッシュなステージだったのか…と驚いた。バックバンドの演奏の一つ一つにも熱さがみなぎる。観客からも高い振動数を感じる。
1990年は私が新卒で社会に出た年だ。あの、昼夜問わず仕事のことだけを考えた時期。歌を歌い始めた時の想い。この動画をみながらそんなことが次々思い出された。
ああ、私はどんなに下手くそでも、みっともなくなっても、やれる限りバンドを続けていこう。一緒に音楽をやってくれる仲間がいる限り、七転八倒しながら、本気で音楽を楽しんでいきたいと思う。
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